アブラハムの宗教を語りたい① ユダヤ教の戒律について
あおいくじらです。
突然ですが僕は宗教のお話が大好きです。
僕は過去に某ソーシャルゲーム会社に勤めていた時期があったのですが、そのとき施策会議をしているプランナーたちが「野球と政治と宗教の話は絶対NGだから」と発言していて僕の何もかもが否定されてしまったという苦い経験がありますが、それでも宗教の話は大好きなのです。
その中でもやはり突出して興味深いと感じるのはアブラハムの宗教と呼ばれる三宗教、すなわちユダヤ教・キリスト教・イスラム教です。
この三宗教はすべてアブラハムというおっさんがすげーヤツだと言っている点で共通しているため、まとめてアブラハムの宗教とか呼ばれています。
さて、みなさんが宗教に抱いているイメージは様々あると思いますが、その中のひとつに「戒律」というのがあると思います。「酒は飲むな」とか「肉は食うな」とか「結婚前にエッチなことはするな」とか、そういうやつです。この三宗教は特に戒律についてのイメージが先行しがちだと思われます。
キリスト教なんかは「汝姦淫するなかれ」とかいう言葉が有名になっているので「キリスト教は戒律が厳しそう…」みたいな印象もってると思うので、そこらへんの誤解が解けたらいいなとか思ってます。
今後またキリスト教などについても書きますが、今回はこの3つの宗教のうち、とくにユダヤ教について戒律という観点からざっくりお話したいなと思ってます。備忘録も兼ねています。
1.ユダヤ教について
ユダヤ教は、この3宗教のなかで一番早く成立した宗教です。
簡単に言うとユダヤ人は唯一神ヤハウェに選ばれた最強民族だぜみたいな宗教です。ちなみにヤハウェってのは神様のことなんですが、読み方はこれでいいのかわかりません。
ユダヤ人の戒律はモーセとかいうおっさんが書いたトーラーに書かれています。
モーセといえば海をカチ割ったことで有名な人ですが、それはモーセが神様にエンチャしてもらったエンチャ杖を持っていたからです。海を割る他にも、彼はエンチャ杖を使ってエジプトのファラオとスーパー魔法バトルを繰り広げてエジプトをめちゃくちゃにした結果これに勝ち、愉快な仲間たちと一緒にエジプトを出て聖地へと旅立ちました。
モーセたちは甘くて訳のわからないなにかを食って生き延びながら50年くらいかけて聖地にたどり着き、シナイ山という山の上で神様とダチの契りを結びます。
そのときモーセは神様とのダチルール(十戒)が書かれた直筆の石版を授かりウキウキで山を降りてきますが、降りてきたら引き連れた民たちがダメって言われた偶像崇拝を早速やっており、それを見たモーセはブチ切れて石版をブッ壊し、またもらいに行くために登ったりしてます。自分で壊したくせに…(結局8回くらいシナイ山を登ってる)
ユダヤ教においてはここでモーセが授かった十戒というのは神様との契約であって、これを破ったら神様とのお約束を破ったことになるので、けっこうやばいことでした。
そんなユダヤ教の律法ですが、現代人の感覚からするともはやよくわからんルールが多いのも事実です。今回はその中でも特に有名な安息日とコーシェルについてお話します。
ちなみに素人なので、間違っていることなどもあると思います。ご了承ください。
2.安息日
安息日(あんそくじつ)は簡単にいうと
「休まないとダメ」
という日です。「やすんでいいよ」じゃありません。「休まないとだめ」なんです。
どれぐらいなにもしちゃいけないかというと、まず料理はダメです。料理はお仕事にあたるからです。自分の食べ物さえこさえちゃいけません。
歩いてもいけません。トーラーの規定だとだいたい1キロくらい歩くとアウトです。人によってはコンビニにさえ行けないので不便だと思ったかもしれませんがご安心を。コンビニも開いてません。ていうかまずお金が使えません。
この安息日は現代になるとより一層困難です。なぜなら電化製品が使えないのです。
スマホをいじるのもパソコンをいじるのも電気を付けるのも洗濯機をまわすのもTENGAウォーマーをつかうのもダメです。
エレベーターも使ってはいけませんが、じつはエレベーターには抜け道があり、イスラエルのエレベーターは安息日に限り自動で全階に停止しながら上下に動き続けています。
どうやら「電化製品を使う」の定義は「機械を働かせる」こと、すなわち「ボタンを押す」ことがダメなそうなので、勝手に動いてるものに乗ったりするのはOKだそうです。それでいいのか……。
ちなみにイスラエルでは、消防士や警察など社会インフラに属する職業は法律で免除されているそうです。なんか安心。
もともと安息日は神様が世界を造ったときに最後の日に休んだことにあやかったものだそうです。でも流石に神様もコンビニくらいは行ったと思うんだけど…
3.コーシェル
コーシェルは簡単に言うと「なにを食べてよくてなにを食べちゃダメか」を決めているものです。オッケーなら「コーシェルです」、ダメなら「コーシェルじゃない」みたいな言い方をします。
なんか色々あるんですが、次のような定義が代表的です。
獣のうち、すべて蹄の分かれたもの、すなわち、蹄の全く切れたもの、反芻するものは、これを食べることができる。(レビ記11章3節)
蹄が分かれて反芻する動物、つまりウシとかヒツジとかヤギはオッケーということになります。
豚、これは蹄が分かれており、蹄が全く切れているが、反芻をしないから、あなたがたには汚れたものである。(レビ記11章7節)
ブタはだめらしいです。
岩タヌキ、これは蹄が分かれており、蹄が全く切れているが、反芻をしないから、あなたがたには汚れたものである。(レビ記11章3節)
岩タヌキって何…?
ラクダもダメ…ん?
ちょっと待って?
分かれてるじゃん!!!!!!!!!!!!!
どういうことだよ!って思って調べてたらなんかラクダは種類によっては足の先まで毛がボーボーらしく、彼らの知ってるラクダがボーボーラクダだったせいで蹄が分かれてるかわかんねーから分かれてねーことにしたらしいです。
バカか?
い、意味わかんねえ…次行こうぜ…
水の中にいるすべてのもののうち、あなたがたの食べることができるものは次のとおりである。すなわち、海でも、川でも、すべて水の中にいるもので、ひれと、うろこのあるものは、これを食べることができる。
すべて水に群がるもの、またすべての水の中にいる生き物のうち、すなわち、すべて海、また川にいて、ひれとうろこのないものは、あなたがたに忌むべきものである。(レビ記11章9-10節)
だいたいわかりますね。つまり魚は食えるってことです。
「鱗がない」という観点からタコとかイカはダメということになります。このあたり欧米人にありがちなイカ・タコが食えないという文化の発祥につながります。
ちなみにウナギは鱗がありますね。でもパッと見ではわからないのでやっぱりダメだそうです。ふーん……。
ちなみに「イナゴは食ってOK」とか、「鳥はOKだけどどの鳥はだめ」って細かく列挙されていたり、他にもコーシェルの規定は色々とあります。さばき方さえ決まっているので大変です。
でも世の中には「コーシェル料理」とか「ハラールフリー」などを掲げ、こういう規定を守る人たちでも安心して食べられるレストランとかもあります。よかったね。
さて、色々と面倒な規定が多い戒律なのですが、そもそもなんでこんな意味不明なルールがあるんだ?と思いませんでしたか?
事実安息日やコーシェルなどは多くのユダヤ教徒も「そういう決まりだから…」で遵守したりしていなかったりしており、そもそもどういう根拠でこんなことが書いてあるのかはわかりません。もちろん聖書にも理由は書いてません。「神がそう言ってたから」という感じです。
「なぜこんな規定が設けられたのか?」
ここからが語りたかった本題です。
4.生活と宗教と戒律と
先に結論をいうと、これらはズバリ
「生きていくためのルール」
にほかなりません。
コーシェルの話を思い出しましょう。
一見すると蹄がわかれてるかどうかとか鱗がどうだとか何いってんだという話なのですが、これはつまり当時の人達が「今まで食ったことのあるもの」とか「食って大丈夫だったもの」とかの経験と知識をまとめ、その特徴を抜き出した結果「こういう特徴があるものはだいたい食える」と定義したものだったのです。
ウシやヒツジやヤギは、食べても大丈夫なことを知っていたのでしょう。では例えばイヌやハイエナは?食べるとウシやヒツジに比べ感染症にかかる可能性がありそうですね。ブタも寄生虫の危険が経験的に知られていたのでしょう。
レビ記では「這うもの」、つまり蛇とかは不浄とされ食べてはいけません。
まぁ見た目キモいし、砂漠とかにいる蛇は毒を持ってることが多いので食料にするのは危険でしょう。噛まれたら死ぬ毒を持ってる蛇が食えるってのは現代人の僕らからすれば常識ですが、当時の人々にとってはなかなか出ない発想だと思いますし。
海のうろこがない魚ですが代表的なもので言うとフグが考えられます。有毒ですね!
こうしてみると、コーシェルとして定義されていない生物は「食ったら危なそう」もしくは「実際食ったら危ないもの」の持っている特徴を共通して備えていると考えられます(厳密には違うのもありますが、これはあくまで古代の人々の知識がベースです)。
さらに面白いのは、ラクダです。
さきほど僕らを混乱のどん底に叩き落したラクダですが、なぜ食べてはいけないのでしょう。
実は「蹄が見えなかったから」は後付の理由だと思われます。
ラクダをコーシェルから外した真のねらい、それは「人が使役できる動物」だからでしょう。
先述の通りモーセはヘブライ人を率いて50年間も砂漠を放浪しました。彼らはその旅路の中で常にラクダを随伴させていたはずです。
荷物持ちや乗り物として役立つラクダは、過酷な砂漠の旅に絶対に必要です。しかし砂漠には食料がない。そんなときに誰かがトチ狂って連れているラクダをたべてしまったら…。そういう事態を防ぐため、最後の最後までラクダを食料にする選択肢を排除しなければなりません。これはそのための規定であったと推測できます。
あとさきほどイヌも蹄が分かれていない動物として挙げましたが、イヌは人類にとって羊追いなど役立つ動物ですから、ラクダと同じ理屈でコーシェルから外したのでしょう。
さて、ここまで語れば充分であると思います。
つまりこれらの律法は、限りなく現実的な側面を持った生活の知恵だったのです。
そしてそれを自分たちの共同体のなかに、厳格なルールとしてあまねく遵守させるにはどうすべきかと考えたとき、これはもう「神様がこう言ったから」とするのが最も手っ取り早く確実な方法だったのです。
もしかしたら安息日もこの考え方にあてはめられるかもしれません。
当時の古代メソポタミアの人々は「太陰暦」を用いて暦を読んでいましたが、その方法は「新月かどうかを神官が肉眼で見て判断する」みたいなあやふやな方法でした。当然曇りの日などは確認ができないため、その日が新月だとまるまるずれることになります。
暦の不正確性は農耕などに悪影響を及ぼします。そのために曜日をカウントする手段のひとつとして安息日のような制度が設けられた可能性も考えられますね。
もともと太陽暦を用いていたエジプト生まれのモーセが、自民族のアイデンティティを保ちつつエジプト暦の便利さのいいとこ取りをするための策だったのかもしれません。
付け加えるならば、ユダヤ教徒の特徴的な儀礼に「割礼」というものがあります。
男性器の包皮を切り取ってズルムケにする行為で詳しい起源は謎なのですが、おそらく乾燥地帯での性器感染症のリスクを減じるための行為が、前述のような理由で宗教的儀礼に昇華されたと考えられます。
5.まとめ:「知識」が「宗教」に昇華する瞬間
宗教というのは、人類の歴史の中でかなり早い段階で発生した概念であり、その本当の目的は、共通の信仰を持ち、集団の結束を強固にし、共同体を危機から守るためのものでした。
何を食べればいいか、何を使役すると便利か、そういう共同体が生存するための生活の知恵を神の教えとして浸透させることで自分たちを危険から遠ざけることが可能になったのです。
こういう、実生活に即したものが神秘的な「宗教」という概念に消化することは、なんというかパラダイムシフトみがあるというか、人類史のなかでもすごく面白い部分だと思います。
かなり長い記事になってしまいましたね…ここまで読んでくださった方がいたら感謝です。ありがとうございました。
再三になりますがこの記事、とくに4つめ以降はぼくの独自研究や独自解釈が多分に含まれているので、あくまでも僕はこう思うというものにすぎません。過信しないようお気をつけください。
さて、次回はキリスト教についてのお話をしようと思います。今回の戒律の話とはまた違った側面からのお話になるかと思われますが、キリスト教は本当に語りたいことがたくさんあるので楽しみです。
余談ですが、イスラエルの都市部にはとんこつラーメン屋があるそうです。
ブタくってんじゃん!!!